1975
Foundation period
ウロキナーゼ精製事業の
存続をかけて奔走した
創業期
JCRの原点は、一つの事業を守り抜こうとした一人の青年の強い信念にあった。1975年、創業者の芦田信は、当時勤務していた製薬会社でウロキナーゼ※の精製プロジェクトを担当していた。しかし、会社の方針転換により、そのプロジェクトは突如として中止となる。すでに大量の尿が確保され、稼働を目前に控えた工場も整備されていたが、そのすべてが行き場を失いかねない状況に陥った。
それでも芦田は諦めなかった。自らの手で事業を継続する道を選び、退職を決意。新たな取引先の確保に奔走し、事業存続への挑戦を始めた。これが後にJCR創業へとつながる、最初の一歩となった。
(※)尿由来のタンパク質分解酵素
その後、フランスの製薬会社との取引成立を機に独立を決意し、JCRの前身となる「日本ケミカルリサーチ」を設立した。創業当時は木造2階建ての社屋に社員6名という小規模な体制での船出だったが、ウロキナーゼ原体に対する国内需要は高く、事業は順調な成長を遂げていった。
その後、尿中からウロキナーゼを効率的に抽出・精製する手法を確立し、ウロキナーゼ製剤および原液の製造承認を取得。さらに営業活動においては、販売後に精製技術のノウハウ提供まで行う付加価値の高いサービスを展開するなど、顧客ニーズに応じた提案を強化した。こうした取り組みにより新規顧客の開拓を推進し、国内外で販路を拡大。事業基盤を着々と築いていった。

神戸市・御影の木造2階建てを改装して設立。1階を作業場、2階を事務所とし、6名で業務を開始。近くの暗渠による悪臭に悩まされ、蓋を作るなどの対策を講じたりもした。
1985
Entry into business
遺伝子工学へとつながる
遺伝子組換え製剤への移行
1985年、JCRは成長ホルモン(GH)領域へ本格的に参入した。当時の国内では、「成長ホルモン分泌不全性低身長症」をはじめとする患者さんの治療ニーズが高まっていた一方で、ヒト成長ホルモン(hGH)製剤の供給は輸入品に大きく依存しており、多くの患者さんが治療を待ち続けている状況にあった。
こうした課題に向き合い、JCRは「治療を待つ患者さんとご家族のために」という強い使命感のもと、まずhGH製剤の輸入許可を取得。その後、1993年には遺伝子組換えhGH製剤の製造承認を取得した。さらに、生体由来製剤から遺伝子組換え製剤への移行を推進し、これが後のJCRにおける遺伝子工学分野への本格的な挑戦の礎となった。
その後も成長ホルモン治療薬の開発を継続し、適応症の拡大を進めることで、より多くの患者さんの治療ニーズに応えてきた。また、成長ホルモン治療においては、薬剤の有効性だけでなく、患者さんが日々使用する投与用注入器(デバイス)の使いやすさも重要な要素であることから、その改良にも注力。
患者さんの負担や苦痛を少しでも軽減したい――。その変わることのない想いこそが、製品の進化を支え続ける原動力となっている。

成長ホルモン治療は、幼い子どもたちへの継続的な投与負担の軽減が課題である。JCRは針が見えない注入デバイスを開発し、子どもや保護者の不安や恐怖の軽減に貢献した。
2005
An Encounter with a Patient
『何とかならないか』
――
その言葉が研究を
動かした
2003年にJCRへ入社した薗田(現社長)は、若手研究員として「苦しむ患者さんの力になりたい」「新しい治療法を生み出したい」という強い想いを抱いていた。数ある研究テーマの中で注目したのが、酵素の欠損によって発症する希少疾病・ムコ多糖症※だった。しかし当時、その治療法への道筋はまだ見えていなかった。
転機となったのは2005年、ムコ多糖症の患者さんとそのご家族が集う「親の会」に参加した時のことだった。患者さんのご家族から「話だけでも聞いてほしい」と声をかけられ、病気による苦しみや日々の生活で直面する困難について直接話を聞く機会を得た。その切実な言葉は、薗田の胸に深く刻まれた。
患者さんの多くは幼少期から症状が進行し、やがて家族との意思疎通さえ難しくなる。「大切な人と言葉を交わせる時間を少しでも長くできないだろうか」。そう考えた薗田は、治療法開発の意義を改めて強く認識する。病と向き合いながら懸命に支えるご両親の姿は、研究者としての使命感を呼び覚ました。
この出会いをきっかけに、薗田は通常業務と並行しながら、自らの研究テーマとして新たな治療法の開発に着手した。患者さんとそのご家族の願いに応えたい――その強い想いこそが、後の大きな挑戦の原点となった。
(※)特定酵素の欠損やその機能低下によってさまざまな症状を引き起こす病気


最初は会社の仕事のひとつだった。それがこのきっかけを経て、いつの間にか自分事になった。「これはどうにかしないと」と。(薗田)
2010
Entry into business
「完全無血清培養」に
こだわり、国産初の
バイオ
後続品を開発
バイオ医薬品への転換が進む中、次に挑んだのが、遺伝子組換えエリスロポエチン(EPO)製剤の開発だった。当時はまだ「バイオ後続品※」という申請区分が存在しておらず、研究開発に関する政府ガイドラインも存在しなかったため、当初は新薬としての開発を目指していた。その中で研究チームが特にこだわったのが、「完全無血清培養」の実現である。
折しも狂牛病問題が社会的な関心を集める中、安全性の高い製造技術の確立は大きな使命だった。しかし、より高度な技術が求められるその挑戦は決して容易ではない。それでも研究者たちは、「自分たちの技術なら新薬を生み出せる」という信念を胸に、挑戦を続けた。
創業以来磨き続けてきたウロキナーゼの精製技術と、長年にわたり培ってきたバイオ技術。その知見を結集し、研究者たちは幾多の試行錯誤を重ねた。たゆまぬ挑戦の末、2年越しで完全無血清培養技術の確立に成功した。
その後、2009年に国が「バイオ後続品」のガイドラインを策定。すでに新薬と同等レベルの国内治験を完了していたものの、一日も早い治療を待ち望む患者さんの存在を考慮し、承認までに時間を要する新薬ではなく、バイオ後続品としての承認を目指す決断を下した。
こうして誕生したのが、日本初の国産バイオ後続品である。患者さんへの早期提供を最優先にしたその選択は、国内バイオ医薬品開発における新たな道を切り拓くモデルケースとなった。
(※)国内で既に新有効成分含有医薬品として承認されたバイオテクノロジー応用医薬品(先行バイオ医薬品)と同等・同質の品質、安全性、有効性を有する医薬品として、異なる製造販売業者により開発される医薬品


2014
Corporate Name Change
JCRファーマへ
商号変更
2014年1月、当社は「日本ケミカルリサーチ株式会社」から、新たに「JCRファーマ株式会社」へと商号を変更した。旧社名は、バイオ医薬品という事業内容に照らして違和感があり、神戸の代表的産業の一つであるケミカルシューズと混同されることもあった。1988年には英文社名を「JCR Pharmaceuticals Co., Ltd.」に改めたため、和文社名と英文社名が一致していなかった。社内外で「JCR」の呼称は定着しており、グローバルな社名の浸透と事業の認知度を高めることを目的として、新社名を「JCRファーマ株式会社」とした。

3代目ロゴマーク。コーポレートカラーを
濃紺から新緑の生命力、再生を表す色に変更
2016
Entry into business
13年間の研究開発の末、
ついに日本初の他家由来
再生医療等製品を生み出す
13年に及ぶ長い開発の道のりを支えたのは、「患者さんのために、まだ誰も実現したことのない治療薬を届けたい」という強い使命感だった。
その挑戦の原点は2003年にさかのぼる。芦田が、ある米国企業による研究成果に深い感銘を受けたことを契機に、従来のバイオ医薬品とは一線を画す「ヒト間葉系幹細胞」を活用した研究開発への挑戦が始まった。
JCRにとって初となる海外からの生産技術移転では、6名の研究者が半年間の実地研修を経て技術を習得し、持ち帰った。
しかし、その後の道のりは決して順風満帆ではなかった。移転された製造方法をそのまま再現することが難しかったうえ、原材料の国内販売中止といった予期せぬ課題も発生。研究規模の縮小を余儀なくされる局面もあった。
それでも、治験を通じてその期待の大きさを肌で感じていた研究者たちは挑戦を諦めなかった。幾度もの困難を乗り越えながら、粘り強く研究開発を続けたのである。
転機となったのは、2012年の山中伸弥氏によるノーベル生理学・医学賞の受賞だった。これを契機に再生医療への社会的な期待が一気に高まり、追い風が吹き始める。
そして2015年、ついに日本初の「他家由来再生医療等製品」として承認を取得。致死性の高い急性移植片対宿主病(GVHD)※に対する新たな治療選択肢を患者さんへ届けることが可能となった。
この成果は、患者さんに新たな希望をもたらしただけではない。JCRにとっても、細胞製品という新たな領域へ踏み出す大きな一歩となった。
半ば執念にも似た研究者たちの想いは、困難な道のりを乗り越えて結実し、患者さんに新たな希望を届けるとともに、JCRの新たな挑戦への扉を開く大きな一歩となった。
(※)同種造血細胞移植時に輸注される造血細胞浮遊液中に含まれるドナー由来のリンパ球が引き起こす合併症



JCR初の海外技術移転に挑み、研究者としてGMP習得からスタートしました。移転製法の実用化には試行錯誤を重ねましたが、その経験は現在の製造技術の礎となったと思います。
(当時の担当者の声)
2020
Entry into business
未曾有のパンデミック・
コロナウイルスの
ワクチン原液製造に参画
2020年、世界は新型コロナウイルス感染症の拡大による未曽有の危機に直面していた。そのような状況下で、日本国内におけるワクチン原液製造の委託先を模索していた英国アストラゼネカ社から、JCRへ協力の打診が寄せられた。
一刻も早い感染拡大の収束が求められる中、JCRは「社会のためにできることを」という強い想いを胸に、ワクチン原液製造への参画を決断。これまで培ってきた技術と経験を生かし、世界的な課題の解決に向けた挑戦の一翼を担った。
しかし当時は、新型コロナウイルスに関する情報が限られており、未知の課題に向き合いながら開発・製造を進めなければならなかった。さらに、一日も早いワクチン供給が求められる状況の中、通常では考えられないほど短期間で製造プロセスを構築する必要があった。
世界的な原材料不足に加え、技術移転元である海外企業との文化や価値観の違いから生じる意思疎通の難しさ、そしてJCRとして初めて対応する法規制への対応など、次々と困難が立ちはだかった。
平均年齢20代という若手中心の現場にかかる負担は計り知れなかった。それでも、「一日も早くワクチンを届けたい」という共通の使命感のもと、メンバーは互いに支え合い、経験豊富な先輩社員の力も借りながら、次々と立ちはだかる試練を乗り越えていった。
こうして製造に携わったアストラゼネカ社製ワクチンは、世界中で広く使用され、新型コロナウイルス感染症のパンデミック収束に大きく貢献した。
この経験は、感染症対策における国内生産基盤の重要性を改めて示すものとなった。JCRは2025年、国の補助金を活用して新たな原薬工場を建設。有事の際にもワクチンを迅速に生産・供給できる体制の整備を進めた。
パンデミックという未曽有の危機を乗り越えて得た知見と経験を糧に、JCRはこれからも人々の健やかな暮らしと社会の安心を支え続けていく。


当時は限られた情報を頼りに製造体制の構築を進める手探りの日々でした。皆を鼓舞しながら奔走していましたが、メンバーに「なんでそんなに壊れないんですか。こっちも壊れられないじゃないですか」と言われたことがきっかけで、互いに支え合う大切さを学びました。
(当時の現場リーダーの声)
2021
Entry into business
JCRの力を結集。
独自技術から世界初の
治療剤を生み出す
その挑戦の始まりは、患者さんの親御さんからの「何とかならないか」という切実な一言だった。2005年、当時まだ若手研究員だった薗田は、希少疾病であるムコ多糖症に苦しむ患者さんのご家族と出会い、その深い願いに触れた。有効な治療法を待ち望む声に突き動かされ、自ら新たな治療法の研究に乗り出した。誰に指示されたわけでもなく、ただ患者さんのために。その揺るぎない使命感が、長く険しい挑戦の幕開けとなった。
治療薬の実現には、脳を保護するバリア機構である血液脳関門(BBB)を通過し、薬剤を脳内へ届ける技術の確立が不可欠だった。この前例のない難題を乗り越えるため、研究チームは長年にわたり地道な研究を積み重ねていった。
その挑戦を支えたのが、JCRがこれまで培ってきた独自の技術基盤である。バイオ医薬品の精製技術をはじめ、バイオ後続品の開発で磨き上げた細胞培養・生産技術、さらには抗体や糖鎖のデザインに関する遺伝子工学のノウハウなど、多岐にわたる技術の融合が大きなアドバンテージとなった。
2014年頃に臨床試験の準備段階へと進むと、「一日でも早く治療を待つ患者さんのもとへ届けたい」という強い想いのもと、開発はさらに加速した。研究開発、製造、品質、薬事などさまざまな部門が緊密に連携し、臨床試験におけるソフト・ハード両面の課題を一つひとつ克服。こうした全社一丸となった取り組みが実を結び、2021年、ついに新薬の承認を取得した。
現在は海外でも臨床試験を進め、グローバル展開に向けた取り組みを推進している。さらに、この革新的な技術を他の神経変性疾患の治療薬開発へと発展させるべく、新たな挑戦を続けている。

血液脳関門通過は理論上可能でも、実現は容易ではありませんでした。実現できたのは、研究者一人ひとりの「挑戦したい」という想いを尊重し後押ししてくれる企業文化があったからこそだと思います。(薗田)

私たちは、希少疾病にとどまらず
最も困難とされる治療の課題に
挑戦し
答えを創り出していきます。
私たちは、研究から開発、製造、販売までを
一貫して手がける、日本でも数少ない
バイオ医薬品メーカーです。
研究開発力とモノづくりの力を強みに、
数々の困難を乗り越えてきました。
治療法を待ち望む患者さんとそのご家族の
願いに応えるために。
そして、一人でも多くの人に希望ある
未来を届けるために。
JCRの挑戦は、これからも続いていきます。